The Modern Cembalo

Tuesday, 13th July, 2004.
すみだトリフォニーホール (小ホール)
19:00--20:46


ザ・モダン チェンバロ 2004 The Modern Cembalo
MICHIYO HONMA 《本間みち代の音世界》
アヴァンギャルドな音の断片 (かけら)

Penka Kouneva (ペンカ・コーネヴァ): Raga for harpsichord (1989) (日本初演)

Bo Andersen (ボー・アンデルセン): Fugitive Encounter for harpsichord (束の間の出会い, 2001)

Christopher Adler (クリストファー・アドラー): things that flow for solo harpsichord (1996)

Béla Bartók (ベラ・バルトーク): Nos. 4 & 6 from Six Dances in Bulgarian Rhythm (1926--39)

David Vayo (デヴィット・ヴァーヨ): “Play of Hands”  for amplified harpsichord (1996) (日本初演)

***

György Ligeti (ジェルジ・リゲティ): Hungarian Rock (Chaconne) für Cembalo (1978)

Sidney Marquez Boquiren (シドニー・マルケ・ボキレン): SALA'AM for solo harpsichord (1993) (日本初演)

Zdenĕk Lukáš (ズデネク・ルカーシュ): Partita pro cembalo (1982)

本間みち代, cembalo.


アヴァンギャルドな音の断片。
モダンチェンバロの魔法
---そのあでやかで瑞々しい音に とりつかれた,
世界中の作曲家たち---
クラシカルなチェンバロでは成し得なかった
清冽な地平が切り開かれています。
音楽の “今” が息づいている。

チラシから

またまた 「ぶらあぼ」 の site から応募してみた。 この日は朝日新聞の site のクロスワードパズルで 「ニコリ」 vol. 107 まで当たっていた。

今年の七夕も一人ではあるが, 代わりにいいこともあるものだなぁ。

ところで, この封筒には招待券 (葉書一葉), チラシの他に A4 の白紙が入っていた。 これの名前は何というのだか忘れてしまったが, 既に二枚入っているのにこれは必要なのであろうかというのと, 今どきしかも無料招待なのにこんな事しなくてもいいのになぁと思ったことであった。

Wednesday, 7th July, 2004.


天気予報によればフェーン現象で暑くなっているのだそうだ。 朝, 昼食と夕食を調達しようとした職場近くのコンビニが改装とかで休み (それも次回の New York Symphonic Ensemble Concert の日もまだ改装中) なので予定が大幅に狂う。

17:50 頃小ホールは初めてなので一度見に行ってから駅に戻り, 食事。 錦糸町北口らかーる 1F の松万というところで天ザル (\1000) を。 サービス券を貰ったが, 五枚なんてとてもじゃないけど今年度中に集められないので, 欲しい人がいたらあげる。 18:15 招待券と tickets 交換。 今日はゆうきと約束していたので, 彼に電話。 18:39 登場。 大分太った印象。 ホールに入ってから, 三年前にオフ会で忘れていったディズニーランドの写真を返す。 ゆうきと直接会うのも三年ぶり (福田美佳参照)。 ホールに入ってみると, 地下におりていく形。 席は 12 列 9 番 (ゆうきは 8 番) を占有。 11 列までは傾斜のない平らな席で, 通路を挟んで 12 列からは少し傾斜がついているという感じ。 見やすいし, 音も聴きやすいだろうということで。 客の入りは 70 -- 80 人位? 中の下という入り方か。 まばらな印象を受ける。 二十世紀音楽でしかも cembalo 独奏ではこの辺が良い所なのだろうか。 年齢層はバラバラ。

19:06 登場。 写真とは違って眼鏡着用。 黒いドレス。

Raga for harpsichord (1989) (日本初演)

1989 年の夏, ブルガリアでは社会的, 政治的緊張状態が起こり, トルコ系住民が (ブルガリアに市民として生活していたのもかかわらず) 彼等の家を捨てトルコに移住していくという自体となった。 “Raga” はこれらの人々の悲劇に触発されて作曲された。 “Raga” は又, 19 世紀にトルコ人に迫害されたブルガリア人の事を歌った “アンジオ, 教えて” というブルガリアの民謡のパロディーを取り入れている。

Penka Kouneva
Concert program より

原始的ダンス風。 低弦が中心的。 途中一寸アラビック。 リュートストップ等, ストップが多用されていて音色の違いも面白い。 ロンド風。 “アンジオ, 教えて” は知らないため, 何処の部分だか分からず。(-- 19:13)

ここでトーク。 ペダル五本。 二段鍵盤。 四種の音色があること。 16ft, 4ft, カプラーがある。 Hystrical cembalo は手で stop 操作をするが, modern は pedal で操作するということ。

Fugitive Encounter for harpsichord (束の間の出会い, 2001) 19:15 -- 一寸椅子を直す。

私はこの作品で, バロックスタイル演奏法と現代のチェンバロの演奏スタイルを結びつけることを試みた。 即ち, Bach の音楽にみられるような style と, Xenakis の “Khoai” にみられるような style である。 この音楽は一定の tempo の中を自由に流れる。 その流れは早めの tempo の中を駆け抜けるのだ。 全ての明白なリタルダンド, ルバートは音楽の素材として取り入れられている。 この作品は, 密度の高い音の固まりからバロック様式の装飾に至る非常に様々な素材から構成されている。 「つかの間の出会い」 は本間みち代に献呈され, 演奏時間はおよそ 7 分である。

Bo Andersen
Concert program より

リズムが破壊されている感じ (変拍子?)。 クラスターも使われている。 (演奏中に入場者あり。) 静寂から突然激しく, そしてまたゆっくりに。 二十世紀的不協和音に終わる。 (-- 19:22)

things that flow for solo harpsichord (1996)

MIT の委嘱により作曲され, エリック・ハーツにより初演された。 作曲するに当たり, 私には二つの基本的な方針があった。 一つは harpsichord のきらめく音色や直ぐに音が持続しなくなる特性に対して, 最初から最後までずっと続く音を鳴らすこと。 もう一つはその音が鳴っている間を通して, ある体系を持たせることであった。 この作品は, 曲の始めに奏される単純なペンタトニック (五音音階) による 16 の音からなる melody を基本としており, それは初めから終りまで周期的に繰り返される。 中心となる音が変換される時, 結果として mode の変化に伴って melody は徐々に形を変えていく。 基本になる melody を繰り返していく音楽の作り方は, 私の体験した東南アジアの音楽や聖歌の melody を周期的に繰り返す初期バロックの鍵盤音楽とも似ている。 この曲に於けるこれらの特徴は曲名に表されている。 それは韓国の若い僧侶が 「流転しゆくものごとに従え」 と教えられる英語から取ったものである。

Christopher Adler
Concert program より

ゆっくりとした民謡調。 すごく古典的であると思うと突然二十世紀的不協和音が混じる。 段々わずかに速くなっている気がするが, 走っているのか, そういう指示なのかは不明である。 途中で激しさを増してくるが, 再び緩やかになり, 単音で終わる。

Nos. 4 & 6 from Six Dances in Bulgarian Rhythm (1926--39) 19:33 -- 38.
Béla Bartókが息子ペーテルの為に書かれた有名なピアノ教則本 「ミクロコスモス」 の第六巻に納められている曲。 第五巻と六巻は共に演奏会用として作曲されたのだそうだ。 原曲がピアノ曲なのでストップを工夫したそうである。 音色の違いが楽しめるが, その代わり強弱はやや犠牲になっている。 No. 6 は軽妙な曲で楽しい。(-- 19:38)

スピーカーセッティング
“Play of Hands” for amplified harpsichord (1996) (日本初演) 19:39 --

この曲はグレン・ワトキンス博士の退官を記念して作曲された。 ワトキンス博士は有名な音楽学者であり, 彼の専門分野はルネッサンス及び二十世紀の音楽であった。 (若き頃には彼はストラヴィンスキーにイタリアルネッサンスの音楽家ジュズアルドの作品を紹介したことがあり, それがストラヴィンスキーの “ジュズアルド・ディ・ヴェノーサ 400 年祭の為の記念碑” を生み出すきっかけとなったのであった。) 私は大学院学生として彼のルネッサンス音楽の講座を取ったが, 彼は “古い音楽のために新しい音楽を想像する” ことに強い関心があり, それ故私は harpsichord という楽器を選んだのだ。 ワトキンス博士はミシガン大学在職中に多くの若い作曲家と親しくしており, 彼が退官したときには多くの卒業生による音楽並びに文書の大部の捧げ物が贈られた。 “Play of Hands” は抑々はその捧げ物の一部になるように企画されたが, それは独自なより大規模な作品となった。 この作品の title は, pianist である私が二段の鍵盤を持つ楽器を弾いてみたときに感じた喜びから来るものである。 この楽器によってもたらされる多彩な音色 (stop によって control される) も又私を魅了した。 Harpsichord の為の作品をすすめるうちに, 私が狭い練習室で enjoy した幾つかの力強い音は, concert hall に於ては音を増幅するためにアンプを使用するので, 同じようには響かないという事を見出した。

David Vayo
Concert program より

音が交錯していく感じ。 途中から左手の和音が激しく cut していく感じ。 途中で弦を指ではじく。 静かな部分は一寸 「鳥のカタログ」 風。 激しくなると共に盛り上がってくる。 グリッサンド。 鍵盤の軽さを行かしている。 ゆっくりになって止まるかと思うが終わらない。 モールス符号のように一音だけの断続。 あっけない感じの終わり。 (-- 19:51)
アンプで増幅した効果が果してあったのか?

《十分休憩》 この間に調律。 譜めくりを付ければいいのにと思う (予算の関係か?)。

Hungarian Rock (Chaconne) für Cembalo (1978) 20:07 --

西ドイツ放送局の委嘱によるもので, エリザベート・ホイナッカが初演。 このシャコンヌは作者 (György Ligeti) の指示により, 右手 9/8 拍子, 左手 (2 + 2 + 3 + 2)/8 拍子, という複合リズムの組合せになっている。 左手はそのリズム合成に基づき, 四つの韻律的要素が終始繰り返される。 右手の短い断片的な旋律は, リズムを刻み, それは順応性に富み抒情的で即興的である。 作者自身によるアーティキュレーションは, 明確に左右の手について異なった方法を表示している。

タイトル通りややロック調。 舞曲として楽しめる。 左手がずっと定型を保ち続ける中, 右手が様々なメロディーを奏でていく。 突然不協和音が解決して静かな流れになり終わる。 (-- 20:13)

SALA'AM for solo harpsichord (1993) (日本初演, historical cembalo の為の作品) 20:14 --

最初の楽章はトッカータのような規則的に速いパッセージで続き, それはカプラー機構の打楽器的な効果音で中断される。 慣例に従えば, カプラーを加えたときに起こる noise は望ましくないと考えられるのでカプラーにすることは常に慎重に行わなければならない。 この楽章はまるで harpsichord の音のパレットのようだ。 第二楽章はリュートストップの豊かで円熟した音で流れていく。 最後の数小節, 奏者は単一の弦で鍵盤を弾く。 私の作品では余り見られないことである。 最終章はしょっちゅう変わる拍子のおかげであたかも冗談めいたスケルッツォ・トリオである。 めまいのするような速度で推し進める巧妙なパッセージが続く。 アラブ語の “Sala’am” はヘブライ語の “Shalom (こんにちは)” のように平和を意味する挨拶である。

Sidney Marquez Boquiren
Concert program より

演奏は modern cembalo で行われるため, 本間みち代はレジスタを多少変更したとのことである。 その際作曲家の意図は充分配慮したと program に書かれている。
速い跳躍のないパッセージが続く。 所々休符が突然挟まる。 調律を模したような音型が幾度か繰り返される。
古典的な部分から二十世紀的不協和音へと移っていく。 盛り上がってきて面白くなったと思うと終了。(-- 20:24)
カプラーをいつ加えたのか全然分からず。 そろそろ頭が疲れてきた。 最後の方は軽い曲にして欲しい。

Partita pro cembalo (1982) 20:25 --

Zdenĕk Lukáš の音楽の鍵を握る要素は様式化されたフォークロアやリズム, 現代的な作曲技法であり, それらを音楽の base にして, 彼自身の豊かな音楽表現を持つ style を形作っている。 この曲は, それぞれ異なった style を持つ五つの小品からなる。

Modern cembalo の魅力の一つに打楽器的な音色というものがある。 突然現れるクラスタからは piano とは又違う気持ちの良い破壊音が得られる。 単音の美しさとの contrast が上手く出れば, 静と動, 暗と明, 美と醜が出せるのだが。 数年前, 東京で Lukáš さんにお会いしました。 丁度合唱団のお仕事で来日された時で, 私はこの作品を以前に何度も演奏していたので, 存じ上げていたのですが, 直接お会いできたら是非お聞きしたいと思っていたことがありました。 曲中に現れるレジスタは作曲者ご本人の指示で, この大胆な音使いはどのように考えればよいのか悩んでいましたが, ご本人にお会いしてやっと飲み込めました。 この曲の持つ繊細で美しい旋律と大胆さは, 全てを飲み込んで大河のごとく流れていく大きな優しさに満ちています。 私にはとてもとても大曲なのですが, これは modern cembalo に取って現代の名曲だと思います。 「東欧の歌」 そのものをご本人にお会いして確信できました。

本間みち代
Concert program より

1. 古典的出だし。 突然二十世紀的に。 再び元に戻る。 鐘の音風。 又元に戻る, といった具合にロンド風。
2. 変奏曲風の主題のあるロンド (?)。
3. ゆっくりとした曲。 癒される感じ。
4. 二十世紀的に破壊された曲。 速いパッセージが面白い。 一寸行進曲風になったり, あるいは又ダンス風になったりもする。 冒頭に戻って勇壮な感じ。 トッカータ風になって終了。
5. イギリス民謡調→不協和→又民謡調→不協和→古典的→不協和と曲想がくるくる変わる。 最後は古典的終了。(-- 20:43)

[アンコール]
チックコリア 「子供の歌」 (20:44 -- 46) 極めて古典的に聞える。

ホールを出ると風が涼しい。 帰りの電車は空いていた。 ところで AU の携帯の時計は自動的に JST に合うようになっているそうだ。 ほぼ常時電波で繋がっているのだからそんなこと簡単に出来そうなのに, どうして他社はやらないのだろう?


2004 年のコンサート鑑賞記録の目次
HOME