クリスマスの物語

Sunday, 24th December, 2000.

心に残るクリスマスの物語というと, 人それぞれに様々なものが思い出されると思うが, 私はここで二つの物語を紹介したいと思う。

一つ目はいささか長い物語かのヴィクトル・ユゴー (Victor Marie Hugo, 1802--1885, フランス) の「レ・ミゼラブル」 les Misérables の一部分である。

レ・ミゼラブル (惨めな人々) という小説はミュージカルでも有名になったが, 小説自体は非常に長く, 五部構成である。参考のために私が持っている新潮文庫版 (佐藤朔訳, 1967) から title だけを抜書きしてみると

  1. ファンチーヌ
  2. コゼット
  3. マリユス
  4. ブリュメ通りの牧歌とサン・ドニ通りの叙事詩
  5. ジャン・ヴァルジャン

となっている。今見てみると, 第四部を除いてすべて人名で, しかも主人公の名前が最後の第五部の title になっている。ファンチーヌはコゼットの母親, マリユスはコゼットの恋人---後に夫---となる男の名前である。 第四部はジャン・ヴァルジャンとコゼットが隠れ住んでいた所の地名だったと思う。

クリスマスの物語は第二部の第三章「死んだ女への約束を果たす」でこれは更に 11 節に分かれている。再び title だけ抜書きすると

  1. モンフェルメイユの飲み水の問題
  2. 二人の肖像の仕上げ
  3. 人には酒がいるし, 馬には水がいる
  4. 人形の登場
  5. 小娘ただ一人
  6. プーラトリュエルの利巧を証明するらしいもの
  7. コゼットが闇の中で知らない男と並んで歩く
  8. 金持ちだか貧乏人だか分からない男を泊める不愉快さ
  9. テナルディエの策略
  10. 最善を求めて最悪を得ることもある
  11. 9430 号が再び現れ, コゼットは当たりの番号を引く

この部分の話は 1823 年 (第一及び六節) のクリスマスの一日のことであり, このときのコゼットは幾つなのだろう ? 多分もっと前後を読めば分かるのだろうが, よく分からない。4, 5 歳位であろうと想像する---もう少し上かも。 ここの所を私は勝手に「コゼットのクリスマス」と呼んでいる。

大体涙もろい私はこういう話を読むと涙 を禁じえないのであるが, 幾つかそのスポットだけでも紹介しよう。 読んだことのない人のためにあんまり紹介しすぎるのはためらわれるのだが, 最初は第五節の終わり, 孤児のコゼットが養い親---というにはあまりにもひどい親だが---のテナルディエ夫妻に命じられて, 暗い夜道を水汲みに行かされた折, 突然重い水桶が軽くなったシーンである。 勿論横から手を差し伸べて水桶を取った者がいるわけだ。

二番目と次は第八節である。 テナルディエ夫妻は実の娘のエポニーヌとアゼルマには好き勝手に遊ばせているくせに, コゼットには「何もしないのを, 食べさせるわけにはいくもんかね」などと養育費を取っているくせにいけしゃぁしゃぁと言う。 ジャン・ヴァルジャンが彼女を遊ばせてあげようと, 彼女の仕事であるまだ編んでいない靴下 (値段にして 30 スー) を 5 フランで買い取るシーン。

三番目はコゼットがエポニーヌの人形に触ったというだけで叱られたときに, ジャン・ヴァルジャンがコゼットの憧れであったおもちゃ屋の「あの素晴らしい人形」を手にとって現れ, 「コゼットの前に, その人形を立たして, 言った。『ほら, これを君に上げるよ』」というシーン。

四番目は第八節から第九節にかけてであるが, 我々はここで, クリスマスの風習というのは何も bed side に靴下を下げるだけではないということを知る。第八節には「クリスマスの日に, 暖炉に履物を置いて, 親切な妖精が, 素敵な贈り物を持って来てくれるのを暗闇で待つ, あの美しく, 古い, 子供の慣わし」と記されている。コゼットも今まで一度もその妖精の現れたことを知りながら, 「半分壊れかけた, 一番粗末な木でこしらえた, 惨めな木靴」を暖炉に置いておいた。ジャン・ヴァルジャンはこの木靴に 20 フラン金貨をそっと入れる (第八節末尾)。「失望しか味わったことのない子供の心に宿る希望, それは, 気高く, 美しいものである」。第九節の後半に移って, コゼットがそれを見つけたところはこんな風に描写されている。「コゼットは, 目を覚ますと, 木靴の所に走って行った。その中に金貨を見つけた。ナポレオン金貨ではなくて, 王政復古の真新しい 20 フラン金貨で, その肖像は月桂冠の変わりに, プロシア風の辮髪(べんぱつ)をつけていた。 コゼットは目がくらんだ。運命が彼女を酔わせ始めた。彼女は, 金貨がどんなものか知らなかった。彼女は, 今までそんなものは見たことがなかった。まるで盗んだもののようにポケットにすばやく隠した。しかし, それを自分のものだと感じたし, この贈り物を誰がしてくれたかも察していた。しかし, 一種恐ろしさに充ちた喜びを感じていた。彼女は嬉しかったが, 何よりびっくりしていた。こんなに素晴らしくて, 綺麗なものが本当にあるとは思えなかった。人形も怖かったし, 金貨も怖かった。こんな立派なものの前で, 何となく震えていた。(中略) 以前は, 心が寒さに震えていたのに, 今は, 暖かかった。お上も, 前ほど怖くなくなった。もう, 孤独ではなかった。誰かがそばにいてくれる。」

私にはヴィクトル・ユゴーが第二部第三章を何故 1823 年のクリスマスに選んだのかがこのあたりを読むとはっきりするのではないかと思われる。 クリスマスは---日本人が曲解しているような意味ではなくて---真に愛の日だからであろう。

さて一つ目がいささか長くなってしまったが, もう一つを紹介しよう。これはクリスマスの物語として有名なチャールズ・ディッケンズ (Charles John Huffam Dickens, 1812--1870, イギリス) の「クリスマス・カロル」Christmas Carol である。Dickens はこの他にもクリスマスの物語を書いており, Penguin Books (Penguin Classics series) から The Christmas Books volumes 1 and 2 として出ている。

一寸前に「三人のゴースト」という SFX ものの映画にもなった作品なので, 内容はみな良くご存知であろうか。守銭奴の代名詞 Scrooge (エブネゼル・スクルージ) が七年前に死んでしまったジェイコブ・マーレーの好意 (?) によって三人のクリスマスの幽霊---それは過去のクリスマス, 現在のクリスマス, そして多分未来のクリスマスの幽霊---と出会って改心するという物語である。

短い作品であるから, 内容は書いても仕方あるまい。結論だけ書くのもなんだが, 最後の祈りの部分だけ抜書きして, 本稿を終わりたい。(以下は村岡花子訳, 新潮文庫, 1952)

彼はこの善い, 古い都にも, 又は他の如何なる善い, 古い都にも, 町にも村にもこの善い古い世界にも(かつ)てなかったくらいの善い友となり, 善い主人となり, 善い人間となった。人によっては彼が別人のようになったのを見て笑ったが, 彼はそういう人たちを笑うがままにしておき, 少しも気にかけなかった。彼はこの世では何事でも善い事なら必ず最初には誰かしらに笑われるものだということをちゃんと知っていたし, 又そういう人々は盲目だということを知っていたので, おかしそうに眼元にしわを寄せて笑えば盲目という病気が幾分なりと目立たなくなるだけ結構だと考えていたからである。 彼自身の心は晴れやかに笑っていた。それで彼には充分だった。
 それ以来, 幽霊との交渉はなかったが, 彼はその後は絶対禁酒主義を奉じて暮らしていった。 そしてもし生きている人間でクリスマスの祝い方を知っているものがあるとすれば, 彼こそその人だといつも言われていた。私達についても同じことが言われますように, 私たちのすべての者がそうなりますように。それからティム坊やが言った通り, 「神よ, 私たちをお恵み下さい, 皆一人一人を !」


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