走れメロス

Friday, 28th April, 2000.
Saturday, 13th December, 2003.


メロスは激怒した。必ず, かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

有名な太宰治の 1940 年の作品 「走れメロス」 の冒頭である。 太宰 31 歳の皐月, 発表された雑誌は 「新潮」 であるという。

内容については言わずもがなではあるが, 要するに自分の身代わりとなっている友セリヌンティウスの命を助け自らが処刑される為に暴君ディオニスの元へ主人公がひたすら走るという物語である。

この小説は 「勇者はひどく赤面した。」 という文で終っているのではない。 良く読むと最後には, この一文のあとに (古伝説とシルレルの詩から) とあって, 太宰のまったくの創作でないということが知れる。以下がその物語だが, 暴君の名前も酷似しているし, 内容もほぼ一致しているのでまず間違いなかろう。シルレル の方は有名な Johann Christoph Friedrich von Schiller (シラー, 1759--1805) のことであろうが彼の詩を全部知っているわけでもないので, こちらはまだ未調査である。メロスが帰ってくる途中で起こるドラマの幾つかはこの Schiller の創作によっているのかもしれない。

登場人物の名 「メロス」 は何によっているのかは不明だがもしかしたら Schiller の詩にあるのかもしれない。セリヌンティウスの方は実在らしく, 下記に資料がある。

走れメロス original story

ディオニュシオス[1]が統治している時代に, ピュタゴラス派のピンティアスという人が僭主に謀反を企み, まさに処刑されようとしているときに, 身辺の事柄のうちで彼が望むものを処刑に先立って整理するための猶予を, ディオニュシオスに求めた。そして, 処刑の保証人として友人の一人を差し出すと彼は言った。 彼の身代わりに自らを牢獄に差し出すような友人がいるのだろうかと, 王が驚いていると, ピンティアスは知人の一人で, ダモンという名前のピュタゴラス派の哲学者を呼び寄せた。 この人は躊躇することなくすぐさま処刑の保証人になった。 友人に対するこの過剰な行為を称讃する者もあれば, 無謀な狂気だと言ってその保証人を非難する者もあった。所定の時刻になると, 国中の者が馳せ集まって, 約束した者がその信頼を守るかどうかと待ち受けた。 既に期限が切れて総ての者達が諦めかけたが, ピンティアスは予測に反して, ダモンが極刑の場に引き出されんとするあわやという瞬間に駆けつけた。 友情が驚くべきものとして総ての者の目に明らかになったので, ディオニュシオスは被告の刑を解いてやり, 自分をその友情の三人目に加えてくれるようにと, 二人に求めた。[アリストクセノスによる]

ディオドロス 「世界史」 X 4, 3.
ソクラテス以前哲学者断片集 第 III 分冊, 岩波
第 II 部 紀元前 6 世紀・5 世紀の哲学者たち (及びその直接の後継者たち)
第 55 章 ダモンとピンティアス

総てのピュタゴラス派のうちには, 恐らく多くの不詳の人達, 逸名の人達もいたであろうが, 知られているものの名前は以下のとおりである。(中略)
 レギオンの出身では…, セリヌゥンティオス。(以下略)

イアンブリコス ピュタゴラス伝 267
ソクラテス以前哲学者断片集 第 III 分冊, 岩波
第 II 部 紀元前 6 世紀・5 世紀の哲学者たち (及びその直接の後継者たち)
第 58 章 ピュタゴラス派 A. イアンブリコスの「人名録」

(233) (ピュタゴラス派の人達が余所の人達との親交を避けたのは偶然によるものではなく, 寧ろ極めて真剣にこれを忌避し警戒して, 何世代もの間お互いとの親交を維持してきたのだ, と人は判断することが出来るであろう。これは <他にも多くの話があるが, 特に>[2] アリストクセノスが「ピュタゴラス伝」 [fr.9 FHG II273] に於いてシケリアの僭主ディオニュシオスから直接聞いたと述べている話に基づいている。 これはディオニュシオスが単独支配から零落して, コリントスで文字を教えていた頃のことである。 (234) アリストクセノス自身の言葉を次に記しておく。) 「かの人達は出来るだけ哀れみや涙や総てこのようなものを差し控えた。 同じことはおべっかや嘆願や哀願や総てこのようなことについても言える。ところで, ディオニュシオスは僭主政治から零落して, コリントスにやってきていたが, 我々にピンティアスやダモンといったピュタゴラス派の人達にかかわることについて屡々語ってくれた。 これは死に担保を取った話であったが, 次のような次第で担保が取られたという。 ディオニュシオスの取り巻き連中のうちに, ピュタゴラス派の人達のことを屡々口にして, 彼等のことをけなし, 嘲笑し, ペテン師と呼んだりして, もしこの上ない恐ろしい目に合わせてやれば, あの気高さも, 見せかけだけの誠実さも, 情念に動かされない心も吹き飛んでしまうだろう, と言う者達がいた。(235) 反論する人達もいて争いが起きた後, ピンティアスとその仲間達には次のような行動がとられた。ディオニュシオスはピンティアスを呼び寄せて, 彼の告発者の一人がいるところで, 自分に対して密計をはかっている者達とお前が共謀していることが露見したぞと言った。 そして, このことがその場に居合わせた人たちによって証言されると, 彼はまことしやかに不快感をあらわにした。ピンティアスの方はその言葉に驚愕した。しかし, ディオニュシオスがこれらのことは厳格に詮議されたことで, お前は死刑に服さねばならないとはっきり申し渡したとき, ピンティアスはこう答えた。 これらのことがあなたによってこのように決定されたのであれば, 私としては, 自分のことやダモンのことを片付けることが出来るように, 今日の残りの時間を自分にくださるようにお願いしたい, と。何故なら, これらの人達は生活を共にし, 総てのものを共有していたのであるが, ピンティアスの方が年長であったために, 所帯のものの多くを自分の所に持ってきていたからである。そこで, 彼がこれらの仕事のためにダモンを担保に立てて釈放されることを求めた。(236) ディオニュシオスが言うところによると, 自分は驚いて, 甘んじて死の担保になるような人間がいるのだろうかと尋ねた。 ピンティアスはいますと言って, ダモンが呼び寄せられた。そして, ダモンの方は一部始終を聞いて, 自分は担保になってピンティアスが戻ってくるまでここで待つと言った。ディオニュシオスの話では, 自分はこの言葉に度肝を抜かれたが, 最初に詮議をした人達は, 彼が見捨てられてしまうに違いないと思ってダモンを嘲り, 鹿[3]が身代わりになったと言ってからかった。さて, 日が今や沈むという頃になって, ピンティアスが死刑に服そうと帰ってきたので, みんな驚いて, 歯向かう気持ちをなくしてしまった。ディオニュシオスは二人を抱いて接吻し, 自分を三人目の友として受け入れるように頼んだ。彼は執拗に求めたけれども, この人たちはこのような関係を結ぶことを固く辞退したのであった。」

イアンブリコス ピュタゴラス伝
ソクラテス以前哲学者断片集 第 III 分冊, 岩波
第 II 部 紀元前 6 世紀・5 世紀の哲学者たち (及びその直接の後継者たち)
第 58 章 ピュタゴラス派 D. アリストクセノス
「ピュタゴラス派の格言 (アポパシス)」及び「ピュタゴラス的生活」から

脚注

[1] イアンブリコスが「ピュタゴラス伝」(127 以前) で述べている記述からすると, これはディオニュシオス二世 (ca. 395--343B.C.) のことである。彼はシラクサの僭主で在位は 367--356, 347--344B.C.  叔父のディオンは彼を理想的君主に仕立てようと, プラトンに教育させたが失敗し, 彼により追放された (366B.C.)。後ディオンは帰国し彼を追った (356B.C.)。ディオンの死後, 再び彼はシラクサの支配者になったが, その専政を喜ばぬ市民に追われ, コリントスに逃れ (ca. 344B.C.), 貧しくここで死んだということである。(平凡社世界大百科事典 1972 年版による)

[2] (原注) < > 内の言葉は, Diels による補訂。

[3] (訳者注) 恐らくアウリスに於いてアルテミス女神がイピゲネイアの身代わりに置いた鹿を指すのであろう (「アウリスのイピゲネイア」 参照)。


その後の, 下記の林哲也 (てつや) 氏の page などを参考にして色々調べた結果, 太宰の参照したのは Friedrich Schiller の Die Bürgschaft (担保, 1798) であることが分かった。 原詩はここにもある。 林氏の page にあるように冒頭などそっくりである。 全部訳してないので詳細は分からないが, ほぼ翻案であるといって良いであろう。 では Möros とは誰か? という事についてはここにドイツ語 (と Latin) だが記述がある。 それによるとどうやら Gaius Julius Hyginus, Fabulae に Möros (そこでの綴りでは Moeros) が出て来るとのことである。 英語だが京大の page の方が読みやすいかもしれない (別の site のドイツ語の page もあり。 Sunday, 18th April, 2004)。 今回ここの記述を書き加えるに当たり, file の名前も改めた。

Saturday, 13th December, 2003.

林哲也氏から mail を頂いて, 上述の Gaius Julius Hyginus, Fabulae LXXXIV Cura qui inter se maicitia iunctissimi fuerunt の原文 page を紹介していただいた。 三箇所あって IntreText CT, ミュンヘン大学の page, UCL の page (見にくい)。

Friday, 16th April, 2004 (on my 40th birthday).


参考文献:
太宰治: 走れメロス, ポプラ社文庫

あとになって 「走れメロス」 という page を見つけたので link しておく (Wednesday, 3rd September, 2002). ここはかなり詳しい。

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