演繹と帰納 deduction and induction

Friday, 18th August, 2000.

先ず演繹(えんえき)という言葉の意味は

(英 deduction) 一般的な命題から特殊な命題を, また, 抽象的な命題から具体的な命題を, 経験に頼らないで, 論理によって導くこと。

で, 演繹法というのは

演繹による推理の方法。代表的なものに三段論法がある。演繹的方法。演繹的推理。

ということである。だから, 演繹というのは普通に数学の本に書いてあることで, 公理 (最初に決めた約束) があって, それに基づいて色々な性質を導くことである。

演繹という言葉は朱子等の中国古典に用例がある。「本義を敷衍(ふえん)して発展させる」という意味で用いられている。

一方これの対義語である帰納とは

個々の観察された事例から, 一般に通ずるような法則を導き出すこと。

であり, 帰納法というのは

(英 inductive method の訳語) 多くの特殊的な事実から蓋然的(がいぜんてき)に真の一般的な原理, 法則を発見する研究方法。ベーコンによって意味づけられ, J. S. ミルによって大成された。狭義では, ミルの定式化した因果関係確定の五つの方法をいう場合もある。

ということである。この用語は西周(にしあまね)がミルの System of Logic から作った言葉であるらしい (因みに「命題」もそうである)。参考までに西周の原文を書いておく:

演繹とは(なほ)字義の如く, 演はのぶるの意, 繹は糸口より糸を引き出すの意にして, (その)一ツの(おも)なる所ありて, 種々に及ぼすを云うなり。之を猫の鼠を喰ふに(たと)ふ。猫の鼠を喰ふや, 先ヅ其の重なる所の頭より始め, (しこう)して次第に胴四足尾に至るなり。…総て其重とする所よりして種々の道理を引き出す, (これ)(すなわ)ち猫の鼠を喰ふ演繹の法なり。

凡そ学たる, 演繹・帰納の二ツにして, 古来皆演繹の学なるが故に, 前にもいへる如く其一ツの拠ありて, 何もかもそれより仕出す。故に終に其(かく)を脱すること能わずして, 固陋頑愚(ころうがんぐ)に陥るなり。…

さて帰納の法は, 演繹の法に反して, 是を人の(さかな)を食ふに譬ふ。人の肴を食するや其美なる所を少しづつ食い, 終に肴の食すべき所を食い尽くすなり。かくの如く, 真理を其小なる所より(ことごと)く事に(つい)て, 外より内に集まるなり。

百学連環

間違えてはいけないのは「数学的帰納法 mathematical induction」と呼ばれる証明法は名前に反して演繹法の一種である。何しろ Peano の公理という, 自然数の性質を定めた公理の中に書いてあるのだから。

東海大名誉教授の川尻信夫先生に言われた言葉によって一寸反省して, Euler の公式の証明法を一寸帰納的に書いてみた。帰納的という所が少しはお分かりいただけるだろうか。

そしてもう一つ勘違いしないでいただきたいのは, 数学の本に書いてあるのが演繹的方法だからといって, 数学そのものが演繹によって構築されているのではないということである。有名な高木貞治の言葉を引用してこの page を終わる。

Gauß (ガウス) が進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ ! それが標語である。それは(すべ)ての実質的なる学問に於いて必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが, それは既成数学の修行にのみ通用するのである。自然科学に於いても一つの学説が出来てしまえば, その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから, 演繹のみから新しいものは何も出てこないのが当たり前であろう。もしも学問が演繹のみに頼るならば, その学問は小さな環の上を周期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論にとらわれないで, 帰納の一途に邁進すべきではあるまいか。
近世数学史談, p. 57, 共立出版

参考文献: 国語大辞典(新装版)小学館 1988


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