演目:
神奈川県民ホールのパイプオルガンは 1974 年 9 月建造。 Johannes Klais Orgelbau Bonn 社製。 30 stops, 2024 pipes (Schwelwerk C-g3: 660 pipes, Hauptwerk C-g3: 672 pipes, Brusstwerk C-g3: 392 pipes, Pedal C-f1, 300 pipes).
古いので register が手動。 登録してある stop を set する pedal を押す度にかなり大きい音がして気になる。 登録数が少ないのか, 演奏前にかなり念入りに, 登録をやり直すので, 演奏者は大変そうである。
20 年振りくらいに来てみたが, organ が 1990 に中央に移設され, 趣が大分変わっていた。
当日は大ホールの方は確か 「中村正俊コンサート」 をやっていたので, 帰りなどはおばさんの群れになってしまった (笑)
客層はこちらも私を初めとしておじさん, おばさんが多い。 中には小学生が母親に連れてこられたりしていた。 私の横 4 人は Messiaen のあとの休憩 (15 分) の間にごっそりいなくなってしまった。 Bach の organ 曲を image して ticket を買ったのだろうか ? だとしたらこの現代曲の嵐にはついていけなかったに違いない。
1. ジャン・アラン: ファンタジー第 1 番, 第 2 番。
ジャン・アランは有名なオルガニスト, マリ-クレール・アランの兄である。 両曲とも, 心の奥にある不安を掻き立てるような不協和音に満ちている。 しかしもう少し迫力があってもいい。
第一番の方には, オマル・ハイヤームの 「ルバイヤート」 から次の詩が添えられている。
運命はどうやって導いてくれようか
この闇の中を渡る我らを
私が天に向かって叫ぶと天は言った
「お前のめしいた本能に従え」
第二番は, アランがアフリカの民族音楽の虜になっていたときに作曲されたということである。 しかし私にはその影響はあまり感じられなかった。
2. モーリス・デュリュフレ: アランの名による前奏曲とフーガ。
前の曲の J. アランは戦場でわずか 29 歳で死んでしまったので, それを悼んでこの曲が作曲された。 名前 Alain を A は A に, L は (多分) ドイツ音名から続けて A, B, C, D, E, F, G, (H, ) I = A, J = B, K = C, L = D だから D, I はそこにあるように A, N は F に当てて ADAAF という音型にして当てている。 とはいえ, 意識して聞いていたつもりだったが, あまりよく分からなかった (^_^;;
今日のリサイタルの中では最も古典的。 現代性が感じられるのは, 不協和音が多いことくらい。
3. オリヴィエ・メシアン: 「オルガンの書」 から 「鳥たちの歌」, 「聖三位一体の神秘についての瞑想」 より 「第五の瞑想」 (神は無限...)
オルガンの書が 1955 にフランスで聖トリニテ教会で発表されたときには, 熱狂した群衆が詰め掛けて, 彼はなかなか演奏台につくことが出来なかったという。
鳥たちの歌は, オルガンの書の第四曲であるが, メシアン自体は, この他にも幾つか鳥の泣き声に取材した曲を書いている。 フルートとピアノのための 「クロツグミ」 1952, ピアノと管弦楽のための 「鳥たちの目覚め」 1953, 「異国の鳥たち」 1956, ピアノ独奏曲 Catalogue d'oiseaux, La Fauvette des jardins (鳥のカタログ, ニワムシクイ) 1956. 内容的にはこれらの先駆けとなっているこの 「鳥たちの歌」 の中でも クロツグミ, 歌ツグミ, ナイチンゲール, コマドリなどの歌声が聞かれる。
メシアンが, 鳥の歌に取材して曲を書いたのは, メシアン自身に因れば 「世の終わりのための四重奏曲」 1941 であるらしい。 彼の 「わが音楽語法」 1942 (邦訳, 平尾貴四男, 1954) 第九章 「小鳥の歌」 の書き出しは, こんな風である:
Paul Dukas (デュカス, 1865 -- 1935) は言った。 「小鳥の声を聞き給え。 彼等は巨匠である」。 私はこの忠告を待つまでもなく小鳥の歌を称讃し, 分析し, 記譜してきたことを告白する。 彼等は歌声の鳴き交わしによって, 極めて繊細な rhythm 保続音のもつれを聞かせる。 その気紛れさにおいて人間の想像力を超えている。 彼等は半音より小さい平均律化されない音程を用いるし, これらは被物質的歓喜の小さな奉仕者たちがさえずる歌声の編曲であり, 変形であり, 解釈である。
メシアンは最初はテープレコーダを用いずに, 五線紙と下敷きを持って直接採譜するという方法をとっていたが, 段々間に合わなくなったのでテープレコーダにとるようになったらしい。 しかし, このような機械的録音は精確ではあるが外界の音を全て記録していて, 耳のように識別的且つ芸術的に音を捕らえていないと述べている (所謂カクテルパーティー効果が起こらない)。
1958 年にブリュッセルの万国博覧会での講演で, 鳥の歌を導入した事情について彼はこう述べている:
全てが駄目になり, 道を失い, 何一つ言うべきものを持たないとき, 如何なる先人に習えばいいのか ? 深淵から抜け出るために, 如何なるデーモンに呼びかけるべきなのか ? 相対立する多くの流派, 新旧の様式, 矛盾する音楽語法があるのに, 絶望している者に信頼を取り戻す人間的な音楽が無い。 この時にこそ大自然の声が来るべきなのである。 (中略)
私について言えば, 鳥に興味を持ってその歌を採譜するためにフランス中を歩いている。 バルトークが民謡を求めてハンガリー中を歩いたように。 これは大変な仕事である。 しかし, それは私に再び音楽家である権利を与えた。 技術と rhythm と霊感とを鳥の歌によって再発見すること。 それが私の歴史であった。
さて, この日の演奏であるが, オルガンの性能もあろうが, 鳥にしては少し音量が多すぎてやかましかった (笑)。 鳥のカタログ, を以前何度も聞いていたのでそれと比較するに, organ は音色が多数あって, 描写には便利だが, ピアノのような繊細さに欠けると思った。 メシアンが 「鳥」 に取材したと全面に押し出した曲に, この曲以降, 段々ピアノの採用に移っていったのは, このような事情があるのであろう。
もう一つの 「聖三位一体の神秘についての瞑想」 より 「第五の瞑想」 は 「神は無限, 永遠, 不変。 精霊の息吹。 神は愛なり」 の三つのテーマに関する曲である。
宗教性はメシアンのもう一つのテーマであるが, 鳥の歌の方が印象が強くて, この曲についてはあまり覚えていない。
4. ジャン・ラングレ: 「黙示録による五つの瞑想」 より 「五番目のトランペット」
この曲以降, 一寸だけメモを取っている。
後半に入って organist が疲れてきたのか, organ の性能の所為なのか, 良く分からないが, 音の切れが悪くなってきた。 つまりトリルなどの連続する早いパッセージで, 隣同士の音がつながってしまうのである。
これはラングレが重病を患ったのちに書かれた作品。 作品のタイトルは新約聖書 ヨハネによる黙示録 第九章 1 -- 12 に取材している。
1 第五の天使がラッパを吹いた。 すると, 一つの星が天から地上へ落ちてくるのが見えた。 この星に, 底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ, 2 それが底なしの淵の穴を開くと, 大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り, 太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。 3 そして, 煙の中から, いなごの群れが地上へ出て来た。 このいなごには, 地に住むさそりが持っているような力が与えられた。 4 いなごは, 地や草やどんな青物も, 又どんな木も損なってはならないが, ただ, 額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい, と言い渡された。 5 殺してはいけないが, 五ヶ月の間, 苦しめることは許されたのである。 いなごが与える苦痛は, さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。 6 この人々は, その期間, 死にたいと思っても死ぬことが出来ず, 切に死を望んでも, 死の方が逃げていく。
7 さて, いなごの姿は, 出陣の用意を整えた馬に似て, 頭には金の冠に似たものを着け, 顔は人間の顔のようであった。 8 又, 髪は女の髪のようで, 歯は獅子の歯のようであった。 9 又, 旨には鉄の胸当てのようなものを着け, その羽根の音は, 多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。 10 更に, さそりのように, 尾と針があって, この尾には, 五ヶ月の間, 人に害を加える力があった。 11 いなごは, 底なしの淵の使いを王としていただいている。 その名は, ヘブライ語でアバドンといい, ギリシャ語の名はアポリオンという。
12 第一の災いが過ぎ去った。 見よ, このあと, 更に二つの災いがやってくる。
新共同訳聖書
上記の第六節のように 「死にたいと思っても死ぬことが出来」 ない苦しみを表す不協和音を持ってこの曲は終わる。
5. ジャン-ルイ・フローレンツ: 賛歌 「ロード」 (エチオピア教会・朝のミサにおけるオルガンのための 7 つの小品) より 「花たちの歌」, 「聖母の涙」
この曲は五音音階が用いられており, 奇妙な --- とはいえ不協和音ばかり聞いている耳には, かえってまともなものに聞こえてしまうが --- 響きがする。
花たちの歌 Mâhlêta segê は第四曲, 聖母の涙 Lâha Mâryâm は第五曲に当たるのだそうである。
6. 細川俊夫: オルガンのための雲景
作曲者の覚え書き:
この作品はオルガンを, 雅楽の 〈笙〉 として, 捕らえている。 (中略) 異なった次元の響きを奏でる三つの笙の響きは, ある時は, 同調し, 協和し, 又あるときは反発し, 衝突しあいながら, 緊密な響きを形成していく。 一つ一つの次元は, メロディーの堆積がハーモニーを形成し, それが又衰退, 消滅していく。 その過程があたかも空に雲が浮かび, それがゆっくりと変化していく様の用であることから 《雲景》 というタイトルがつけられた。
作曲者自らが語るように, あたかも笙のように密集した音型 (tone cluster) で出来上がっている作品。 オルガンが大音量で鳴っているにもかかわらず, 静寂, 静謐という言葉がぴったりと来る。
7. 権代敦彦: YOKOHAMA TESTAMENTS
作曲家本人の解説:
この曲は, 20 世紀と 21 世紀との交点に, 横浜で生まれる。
"TESTAMENTS" は, 去りし 20 世紀の 「証言」 であり, 今始まらんとする 21 世紀への 「遺言」。
前世紀末に, 早島万紀子, 今井奈緒子という 2 人のオルガニストとともに, 5 人の日本の作曲家の新作による "TESTAMENTS" 〜 20 世紀の証言 --- 祈り --- 21 世紀への遺言 〜 というコンサートをひらいた。
ここで僕が捧げた "R.I.P. (requiescat in pace) II --- Epitaphium (墓碑銘) ---" という曲。 人間同士の戦いを繰り返すことに費やされ, 血の結晶の上に築かれた 20 世紀へのレクイエムとして。 又それを 21 世紀に証す。 そのようなものとして。 ただ, その間に 「祈り」 こそが立ち現れること。 その事だけが, この曲に込めた僕の思い。
「交点」 を経て。 今日ここに生まれる "YOKOHAMA TESTAMENTS" は, 世紀末のレクイエムの残響 ・ 残光。
7-6-5-4-3-2-1 と圧縮を繰り返す時間は, 迫り来る 「終末」 の予告。 「完成」 の予兆。 やがて 「遺言」 として, これら 「エコー」 は 「永遠」 へと溶解され, 「時間」 → 「空間」 へと変容する。
この解説の, 一番最後の部分ははっきり言って, 何を言ってるのか良く分からない。 この曲は最初にまるで耳鳴りでもするような Brustwerk Sifflet 1' g3 (最高音) の音に始まる。 Pedal の 16' C (最低音, Subbass か Posune か不明) の音も用いて可聴域一杯の音が full に用いられている。 神秘的と言うか, 宇宙的と言うか, そんな感じ。 A-B-A の形式に近いか, 或いは逆行カノンのように回帰して終わる。