利口な女狐の物語

Sunday, 26th November, 2006.
日生劇場
14:00--16:20


Leoš Janáček (レオシュ・ヤナーチェク, 3rd July, 1854 -- 12th August, 1928)
Příhody Lišky Bystroušky (利口な女狐の物語)

原作: Rudolf Těsnohlídek (ルドルフ・チェスノフリーデク)

日生劇場オペラ教室

森番: 泉良平
女狐ビストロウシュカ: 中嶋彰子
雄狐: 蔵野蘭子
校長/蚊: 大野光彦
神父/穴熊: 岩本貴文
行商人ハラシュタ: 折河宏治
宿屋の主人パーセク: 石鍋多加史
森番の妻/梟: 諸田広美
犬ラパーク: 三角枝里佳
パーセクの女房: 村澤徳子
雄鶏: 鈴木純子
鶏冠雄鶏: 宇月東
蛙: 伯田桂子

高島勲, 演出

広上淳一, 指揮
新日本フィルハーモニー管弦楽団


私は知っている... いつの日か 地上のものが見えなくなり, 生命が私の目に最後の帳を降ろして, 静かに立ち去る日が来るだろうことを。
それでも, 星々は夜通し瞬き, 朝は変わることなく明け染めるだろう。
そして時は 海の浪のように高まり, 喜びや苦しみを打ち上げるだろう。

タゴール

曇りで気温が下がって寒い。 家を出るときは少し晴れ間が見えていたのだが。

パンフレットは 800 円。 思ったより安い。

パンフレットに拠れば Bystroušky とは 「耳ざとい (耳のとがった)」 という意味で, 本当は 「すばしっこい」 という意味でビストロノシュカと書いたのが誤植によって今の形になったのだそうである。

舞台はいい意味で現代的。 立ち木を示す高さの違う木の棒が何本も立っている。 最初は黙劇のように前奏曲の時に人々 (動物達) が現れる。 パントマイムもしている。 最終場面も同様。 (唯, 最終場面では逆向きに歩いて舞台に登場する人がいる。 最終場面では殆どの人が上手を向いて舞台に登場した)。

前半は第一幕から第三幕まで通しで。 完全日本語上演。 字幕付き。

[I] 14:00 - 15:14

幕が開くと, 先ず, S 字形にジグザグになった道がせりで少し持ち上がる。
子狐が 「ママ, ママ」 と歌うのだが, 高音部が一寸まずかった。
蚊が 「血ぃ吸うたろか」。 というのが面白い。
蜂? 蝿? アブ? とトンボが面白い。

森番が子供の女狐を家に捕まえて来る。 そのとき女狐の皮 (というか人形) だけを持ってくるのだが, 皮だけにされちゃったので, 撃ち殺したのかと思ってしまう。
家に捕まえてきたところから, 子役から中嶋さんに代わる。 中嶋さん, 赤い桂をつけている。

雌鳥たちに向かって女性解放, 民族解放の演説らしきことが行われ, 森番の家から逃れていく。

木に扮した人々が, 片手でリスを演じるのが面白かった。
穴熊の家をのっとる時に 「私の愛よ」 と言って小便を引っ掛ける。 これはどういう意味があるのか?

ここで場面が変わり森番と神父と校長が酒を飲んでいるところになる。 ここがあまりよく分からない。

女狐は雄狐と出会う。 そして身ごもるが, その後結婚のシーンになる。 この辺, かなり昔の道徳観が出ている。 雄狐は女性が演じているが, 付け髭をつけている。

曲は思った程現代的でなく聴き易い。 唯, 内容から考えて, 受け入れやすいかどうかは問題。 特に (昔より幼くなった) 高校生で, これが理解出来るかどうかは大変疑問。

《休憩 25 分》

[II] 15:40 - 16:20

三幕になったとたん, 女狐は密猟者の銃弾に撃たれてしまう。 夫と子供達をかばいながら。
この辺で 「何で殺すの? 狐だから?」 という台詞が妻のお気に入りのようだ。
この台詞は民族差別を表していたりするのだろうか?

校長は結局, この密猟者に恋人を奪われてしまう。 この辺, どういう展開なのだか今一つ分からない。

死と再生の message が感じられる終幕だった。

後で思ったが, musical 版の Lion King に一寸似ている。

私が地上を去るとき, 別れの言葉に,
こう言って逝かせて下さい---
「この世で私が見てきたもの, それは類なく素晴らしいものでした」 と。
「光の海に咲き誇る この花の秘められた蜜の甘さを 私は味わった
こうして私は祝福されたのです」......
「無数の形から成るこの劇場で,
私は, 自分の役を演じてきました。
そしてここで, 私は
形のないあの方の姿を見たのです」。

タゴール
死生の詩
 


2006 年の以降コンサート鑑賞記録の目次
HOME