長田弘: 機関銃は, 殺せても蘇らせる力を持たず, 言葉は常に蘇る力, 蘇らせる力を持ち続けるから。 私は, 複数によって形作られていくのが本来の identity なのだと考えたい。 二十一世紀の identity にとって最重要なのは純粋な一つものではなくて, 混在と複合という, plural (他者のいる) identity の持ち方だと思う。
坂本龍一: そのお話はとても示唆的です。 A か B かという原理主義, 排中律に陥らない。 種に水を上げるように, このことを大事に育てていきたいですね。
暴力の前に言葉・音楽は無力か (対論)
朝日新聞, morning, Monday, 7th January, 2002.
排中律とは, 命題 A と 「A でない (¬A)」 の中間がない, という法則である (英語はそうなっている)。 つまり A か 「A でない」 かどちらかで, その何れでもないものはないことを主張する。 「古典主義論理」 と呼ばれる論理では正しいが, 「直観主義論理」 「最小論理」 と呼ばれる論理体系では必ずしも認められない。 ラテン語は, 中間ということではなく (A か 「A でない」 か以外の) 第三の部分が存在しないと言うような意味であると聞いている。
直観主義論理において, A とは 「A が正しい」 ということを意味しているのではなく 「A が正しいことの直接証明が得られている」 と解釈する。 つまり 「あるものがないとすると矛盾するからあるとしなくてはならない」 という形の証明を認めない立場である。 逆に 「A だとすると矛盾するから ¬A」 の形の証明は認める。 例えば √2 が有理数だとすると矛盾するから √2 は有理数ではない, の類。 従って, 直観主義論理では 「A は正しい」 が A の直接証明がない, というのがあるので, 排中律は成立しない。
朝日新聞のこの部分の注: 任意の命題について A と B の中間を認めない論理的原理の一つ, というのは, この意味で誤っている。 抑々, A と B の中間っていうのは何だろう ? 例えば 「鶏が鳥である」 と 「人間は必ず死ぬ」 の中間とは ? 勿論 B の代わりに 「A でない」 とすれば良かったのである。