アンサンブル東風

Saturday, 14th February, 2004.
旧東京音楽学校奏楽堂
14:00 -- 16:00


アンサンブル東風 (こち) 第五回定期演奏会
「え゛っ, ベートーヴェン!?」

L. van Beethoven: Symphony Nr. 1 in C-dur, op. 21 (1799 -- 1800)

Dieter Schnebel (シュネーベル): Beethoven Symphony (1985)

松下功: 交響曲 「合掌」 (2004) 〜聲明 (しょうみょう) と室内オーケストラ〜 (初演)

Mauricio Kargel (カーゲル): Finale mit Kammerensemble (1981)

アンサンブル東風
松下功, conductor, 花田和加子, vn, 宇佐美さやか, fl, 有馬理恵k, cl, 功刀貴子, bn, 堂山敦史, hr, 尾廣倫行, hr, 平井志郎, tp, 稲野珠緒, perc, 及川夕美, pf, 古川仁菜, vn, 中島久美, va, 松本卓以, vc.

賛助出演 Ob: 周藤和嘉 Cl: 大下和人 Trb: 今込治 Tub: 石丸薫恵 Db: 渡邉玲雄 Perc: 渡邉理恵

迦陵頻伽 (かりょうびんが) 聲明研究会 (聲明)
平井和成, 齋藤説成, 小路耕徳, 新山尚道, 戸部憲海, 田中康寛, 孤島泰凡, 根本聖道


Saturday, 31st January, 2004 に 「ぶらあぼ」 の site から応募してみた。 14th February といえば, 世は St. Valentine's Day であるし, 普段は出歩かないのだが, こういう日に現代音楽の tickets の present なんてそうは応募がないだろうということで応募してみたところ, 見事に当たったのである。 Beethoven の Symphony Nr. 1 だけは現代音楽ではないが, 第一交響曲なんて聴いたことがないし, 一寸楽しみである。 又 Schnebel と Kargel の作品は, (別作品だが) Just Composed 2003 in Yokohama 以来である。

Tuesday, 10th February, 2004.


東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

菅原道真

晴れ。 春一番が吹くかもと言われていたが, 午前中はさほど風邪はない。 前夜に飲み会があった為やや眠い。 花粉が飛んでいる気がする。 本当は先週髪を切ろうと思っていたのだが, 切らなかったので一寸鬱陶しい。

奏楽堂には 13:28 に着く。 が, まだ開門していない。 13:30 になって開門。 はいって ticket を貰って二階に登る。 正面に pipe org. 天井は小さめの volt. 楽器全体がやや左寄り。 右に org. の演奏台らしいものが見える。 これの為に全体に左寄りなのか? 左から pfte, timpani, Glockenspiel, marimba など, 右奥に太鼓。 舞台左右端に小型 speaker あり (今回は使用しなかった)。

聴衆は連れ立って来ている人々もいるが, 結構一人で来ている男も女も多い。 まぁ一人とは言っても, 彼氏/彼女が仕事中とか色々あるのかもしれない。 若い方 (小学校高学年?) から老年まで幅広い層。 入りは六から七割位か? 座席の構造とか暖房の入れ方とか色々面白いところがある。

こんなことを書くのも, 今朝 「[†]友達がいないクラヲタ…いつも 1 人でコンサート 4」 の 309 04/02/13 12:45 にこれを聴きに来るというのがあったからなのだった。

14:04 扉閉じる。 14:06 奏者登場。

1. Symphony Nr. 1. (-- 13:34)

第一番と言われると 「初々しさ」 などを期待してしまいますが, この作品を書いた時 Beethoven は既に三十歳。 一見, Haydn 的な simple で明解な構造 (特に第二楽章) を用いていますが, Beethoven の音楽はこの枠組みを突き破る energy を持っています。
 四楽章から成っており, 第一楽章は 「ハ長調の筈では?」 と思わせるような唐突な序奏が付いています。 第二楽章は Haydn 的な andante. 第三楽章は minuet とかかれていますが, ほぼ scherzo と言えるでしょう。 第四楽章は dramatic な序奏を経て, Beethoven らしい爽快な allegro へと続きます。
 ヴァン・スヴィーテン男爵に献呈されたこの作品は, Beethoven 自身の指揮により, 1800 年 4 月 2 日に Wien のブルク劇場で初演されました。

花田和加子

I. Adagio molto - Allegro con brio

バランスの悪さは否めない。 やはり弦が弱い。 確かに Haydn, Mozart っぽい所もあるが, 既に Beethoven らしさはでている。 外の雑音が結構気になる。 1st Mvt 後途中入場者三名。 2nd Mvt 開始後一名。

II. Andante cantabile con moto

多分 6/8. 最初が canon と言うか fugue 風。

III. Menuetto: Allegro molto e vivace.

上記の解説にも書いてあるが, 間違いなく scherzo.

IV Adagio-Allegro molto e vavace.

最初一寸 Beethoven らしくないかも, と思ったが, 段々それっぽくなって来た。

ここで一名退出。 五人入場。 (これで八割位になった?)

2. Beethoven Symphony (14:37 -- 14:50)

Glocken. marimba
pfte, Hr tramp fl ob bn
vn va vc CB

Schnebel の "Beethoven Symphony" は言うまでもなく, かの巨匠の 《第五交響曲》 の編曲, いや正確には独自の受容・解釈に基づく実験音楽である。 それは Bach の Die Kunst der Fuge を始め, 古典やロマン派の repertoire を素材とする Re-Visionen series の一曲であり, 70 年代以降の Schnebel の創作が一方向で掲げる伝統との取り組みでもある。
 RE-Visionen series は, 「過去の重要な作品 --- Bach, Beethoven, Webern, Schubert --- を今日の体験から新しく聴くことが出来る」 という Schnebel の意図から察するように, 聴き慣れた過去の音楽の響きを, 現代の technology と耳の filtre を通して, 別の音像へと映し出す (Re-Visionen には 「改訂」 を意味するドイツ語に, 「幻影が再び現れる」 と言う意味が掛けられている)。 かつて伝統との断絶によって前衛を掲げた Schnebel は, 前衛の衰退から postmodern の台頭にさしかかる 1970 年代に, このような作曲を始めた。 それは商業主義や保守主義に染まった伝統音楽の, Bloch や Adorno 流の academism による手厳しい批判でもあるのだが, 他方でますます広がる現代音楽との乖離の仲裁をも意味する。 しかしその際, Schnebel は過去の既成の音楽を paraphrase するのでも collage するのでもなく, 分析, 解体と言った根本的に série 技法に由来する前衛の語法を用いて, 過去の音楽と現代の音楽の仲裁を図るのである。 それは両者に潜在する原石のような響きや力を発見することであり, 音楽の慣習的な聴き方を打破することへと向かう。 Beethoven Symphony はそうした意図と方法のもとに書かれているのだが, 実際にその音楽を聴くと, 何よりも徹底した Schnebel の分析力と解釈の実践に恐れ入ってしまう。 又, 作曲家らしい秘めやかな実験の楽しみを見ているようでもある。 因みに拍子は本来の 2/4 ではなく, 5/8 拍子に引き伸ばされている。 その unbalanced な余白を 「運命」 の動機がまるで humors を肩に駆け回る。 Schnebel 現代語訳による 「第五交響曲」 に恐らく音楽との真の親しみ方を聴くことが出来よう。

長野麻子

[Beethoven Symphony に寄せて]
Beethoven という巨匠は, 一般に構成主義的な作曲家と見なされている。 「動機作法」, 展開, 即ち sonata 形式に於ける芸の達人である。 現に作品の大部分において, 構成が際立っている。 ところが Beethoven とは, 元来, 情動の激しい多感な作曲家でもある。 同じく作品の大部分を大きな感情が占め, 広大に延びる感情の曲線に, 屡々形式が重なり合う。 例えば 《第五交響曲》 は一方面では極めて 「構成的」 に見える。 つまり, 全てはあの 「運命の動機」 から発展し, 突進するような運動の中で, 加工された動機が様々な楽器の領域へ行き渡る。 それは控えめでもあれば, 堂々ともしており, 柔和でもあれば, 只ひたすら暴力的に打ち鳴らされる粗野なものでもある。 そのような動機の 「活動」 が, Beethoven の交響曲の中で, まさしく連打によって行われるのだ。 敷かした方では, その背後 (及び中) で単純な melody と harmony が, 同様に多くの表現領域を隈なく渡り, 歌を奏でる。 それは悲壮にも聞こえれば, 浪々とも歌われ, 奇想にも満ちていれば, とりわけ音楽が完結化する終結部に至っては唯露骨でしかない。
 上記のことを聴かせたいと, 私は現代音楽の手法を用いて音の層や色彩を作曲し, 時間構成を総合的に目論み orchestration を分析的に実施した。 つまり深層にある Beethoven 意識下で沸騰する感情の中へ入り込むために, それと同時に表層の humors へ入り込む為である。 逸話で知られるように, Beethoven は 「自然児」 であった。 彼は雷雨や嵐の悪天候の中, 荒野をさすらい, 自然の轟音に身を晒すことを好んだ。 従って 《ベートーヴェン交響曲》 にはそのような具体音楽も描かれている。

Dieter Schnebel
(長野麻子訳)

上記のように Nr. 5 「運命」 1st Mvt の編曲 (戯画という意味での), parody, 歪んで (いびつ) な鏡像である。 5/8 に引き伸ばされてしかも飛ばしている音があるために間延びし, mute されていて色褪せた感じ。 打楽器群が活躍し, 紙をくしゃくしゃと丸めたり一斗缶 (?) を叩いたりしているにもかかわらず, 却って色彩感に乏しいのは不思議。 引き伸ばしたために付点音符になっていたりするのだが, ほぼ完璧に原曲をなぞっている。 もしもあの冒頭の 「ジャジャジャジャ〜ン」 しか知らない人にこの曲を聴かせたら 「Beethoven って変」 と思うかもしれない。 Schnebel の意図は分かるが, 「表層の humor」 は痛々しく悲愴で, まじめな人が時々言って失敗する joke の様だ。 「具体音楽」 についてはあまり良く分からなかった。 Schnebel は私に合わないのかもしれない。 或いは又 score を見ればもっと面白いかもしれない。

《15 分休憩》 (-- 15:02)
帰ってしまったらしい人, 席を移動する人, ここから来た人あり。

3. 「合掌」 (-- 15:20)

交響曲 「合掌」 は, 「青の背景」, 聲明オラトリオ 「天竺憧憬」 に続く三作目の聲明作品である。 常に日本の伝統仏教からは, 作曲だけでなく多くの面で影響を受けているが, 今回は大胆にも Beethoven と聲明という, 異質なものの融合を試みてみた。 聲明と第九交響曲とは, 一見全く相容れない世界のようであるが, 共に 「大いなる救い」 (これを 『大救 “だいきゅう”』 と読んでみようか) という祈りを theme としているという共通項を持っていると考え, 心の安らぎと喜びをゆったりと唱えてみたいと考えた。 曲中には, 第九, 弁財天真言, 真理の言葉からの一節等を素材として取り混ぜている。

松下功

pfte perc Hr (2) tramp tromb bn
fl ob
vn (2) va vc CB

客席横から (りん) を鳴らしながら声明隊入場。
合唱付 4th Mvt の parody からはいる (が最初の部分だけと言って良い)。 (original にある部分の) 低弦が邦楽っぽい。 声明と共に pfte と perc で前衛的になる。 そのあと弦楽が続く。 この辺り一寸 B 級 horror 映画の BGM っぽくて少し笑える。 管が混じってきて Witold Lutosławski みたいになる。 段々盛り上がってくるにつれ面白さを増す。 声明が一旦停止するとその theme を ensemble が引き継ぎ, 再び声明が加わると合掌, 一気に盛り上がり GP. 声明, gong. 非常に面白い。

「迦陵頻伽」 が VJE-delta で一発変換したのが一寸驚き。

4. Finale (15:27 --)

Kargel の Finale をまだ耳にしたことのない聴衆に, この作品の詳細を明かすのは如何なものか。 こう書くと二十年余り前の初演の episode を知る者はニヤニヤするであろう。 敢えて一つだけこの作品と Beethoven との関係を述べるならば, それは唯 「運命」 であるとしか言いようがない。 運命と finale. それは一体何を意味するのか, 恐らく想像がつくであろうか。 Kargel が言わんとする意図はそこにある。 Kargel が London Symphonietta を指揮し, この作品を初演したのは, 1981 年, 五十歳の誕生日であった。
 Kargel と言えば, Schnebel 同様, 前衛音楽の第一線に立ち, 数々の Musiktheater で知られて来たが, しかしその内容ほど他の作曲家を凌いで, 皮肉と humor に満ちたものはないであろう。 Schnebel も亦 Musiktheater の旗手であり, 両者は屡々比較の対象にされるが, 抑々 academic な理論を拠り所とし, ドイツ音楽の伝統をかなり真面目に背負っている Schnebel の音楽に対し, Kargel の音楽にはそのような呪縛はなく, 寧ろ音楽に無関心と言えるような自己流に徹した独特の哲学が流れている。 しかし, やはり時代の影響から 1970 年代以降には, 過去の作曲家の音楽を motif とした作品が目立ち始める。 Beethoven の例としては, 寧ろ Ludwig van (作曲は 1969) の方が有名であろう。 Beethoven の引用の断片を加工したものから成るこの hommage (オマージュ) 的作品は Schnebel のような 「伝統」 といった歴史批判的 approach とは異なる視点で, Beethoven の音楽に内在する魅力を引き出そうとしている。
 Finale にはいくつかの collage が挿入されている。 しかし 「運命」 の関係 = 《第五交響曲》 の単なる collage と思ってはならない。 Finale の凄さは Beethoven が投げかけるその意味論に大いに帰すのではないかと思う。 Kagel にとっても Beethoven の存在はそれほど偉大なのである。

長野麻子

parc (一人)
fl, hr, ob, clm bass cl, bn, tuba
pfte vn vn va vc CB

極めて前衛的な作品。 色彩感にあふれていて面白い。 perc solo が合って, 指揮者咳き込む。 転倒。 奏者立ち上がる (元から立っていた CB と演奏の都合上立てない pianist を除く)。チェラーノのトマス作と言われる Dies Irae (怒りの日) を piano が低音で演奏。 vn 二台の重奏。 Solo vn を除いて着席。 次いで vn 着席。 展覧会の絵からの引用。 指揮者が倒れたまま楽員退場。

すぐ再入場して着席。 まだ指揮者が倒れたままなのでコンマスが起こす。 ここから encore で hr と perc がもう一人 (pfte なし) になって Für Elise のオケ編曲版 (fl は piccolo 持ち替え)。 (-- 16:00)

現代音楽に performance 迄加わっていると, どこまでが performance なんだか分からなくなる。 入退場と encore 迄が Finale かと思ってしまう (笑)。

せっかくだからと退出するときは反対側の階段から降りてみる。 ロビーのような空間がないだけでほぼ左右対称。

外は強風だった。 この日気象庁は春一番であると宣言した。


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